全ては虚像 前作否定映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」感想

2024年10月12日映画感想キャラクタ,レビュー,人生,映画,社会

著者: 今井 阿見

映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を日本での公開初日に劇場で観てきました。今作は映画「ジョーカー」の続編であり、前作は日本国内興行収入50億円を突破している人気作なので、平日にも関わらず座席は結構埋まってました。

私は前作を何度も見るほど好きなので今作を公開初日に見に行きました。ですが、既に本作が公開済みの米国では作品に対する評論家及び一般観客の評価が悪く、なおかつ興行収入も良くないので鑑賞前は不安しかありませんでした。

実際に私が劇場で映画を鑑賞した後の率直な感想ですが「私は本作を楽しめたが、前作を見た観客が求めている作品ではない」と思いました。以下は、ネタバレありの映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」感想・レビューです。

前作否定映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」感想

映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』予告 2024年10月11日(金)公開 – YouTube

本作は前作「ジョーカー」と異なりミュージカルシーンが多いです。前作に出てきた人が本作にも出てくるので、前作の内容を忘れた人には復習が必須の映画となっています。

「続編に求められていたもの」を蹴飛ばすかのような内容

通常、映画の続編というものは前作と似たような内容、前作を踏襲した内容になることが当たり前であり、観客もそれを望んでいます。

しかし、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」はそうではありませんでした。前作と同じ主人公、登場人物が出てくるにも関わらず、映画の内容は大幅に変わっていました。

前作の「ジョーカー」では冴えない売れない芸人の男であるアーサーが悪のカリスマ「ジョーカー」として成り上がり社会現象を起こすという構成なので、本作もそうなるのではないかと思って劇場に見に行った人も多いと思います。

実際に「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の予告編はアーサーがジョーカーとして更に大衆に影響を与え、そのフォロワーの中からハーレー・クインが誕生するのではないかと思わせるかのような構成の要約になっています。

しかし実際の本編の内容は予告編で思わせるような内容とは異なり、アーサーが自分はジョーカーではないと宣言し、ハーレー・クインは誕生せず、アーサーは自分のフォロワーに刺され惨めな最期を迎えるという内容でした。

前作のような"悪の成り上がり映画"ではないので、それを求めていた観客、前作の「ジョーカー」に熱狂した人に冷水を浴びせる内容と言えるでしょう。

それだけでなく、今作には前作にはなかったミュージカルのシーンが長尺で含まれています。前作「ジョーカー」の続編を求めていた観客は"歌ったり踊ったりするジョーカー"を見たかったかと聞かれると絶対に違うと言うでしょう。

これらの理由により、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は前作とはかなり別物の続編となっています。これは例えば、映画「トップガン」の続編がミュージカル映画やホラー映画になり、ドッグファイトも無くなるようなものです。

私は映画を見ることで、この作品が世間的に不評であることに納得がいきました。今作は「ジョーカーが大暴れ」する映画ではありませんからね。前作を見た観客の期待には全く応えていません。

ただ、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」がクオリティの低い映画かと言われると決してそうではありません。私は冒頭のアニメから最後のシーンまでちゃんと楽しめましたし、本作は映画としては傑作だと思っています。

しかし本作は「映画『ジョーカー』の続編に求められていたもの」を蹴飛ばすかのような内容でした。

映画「ジョーカー」は誰からも愛されない男がヴィランとして成り上がる世界を描いて絶賛されました。そして、その続編で愛されたのは結局「ジョーカー」であって、アーサーは誰からも愛されていなかったと明らかにしました。

今作を観て期待外れだった人は、作中に出てくるリーやジョーカーの狂信的な信者と同じで、愛しているのはジョーカーという虚像でアーサーのことなんかどうでもいいと思っている人というメタ構造になっているのが面白いですね。

あなたが愛したのは「アーサー」か「ジョーカー」か? 作品そのものが強烈な問いかけとなっているので、それを上手く消化できない人にとっては苦痛の大きい映画になると言えるでしょう。

今作は「『ジョーカー』でいられなかった男」の物語

前作が「ジョーカー」という虚像が生まれる物語だとすると、今作「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」はアーサーがジョーカーという虚像を背負うことを辞める物語です。

実は「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」で描かれているテーマ自体は前作にもちゃんとありました。きちんと前作を見ていればアーサーという男自体は何も変わっていないということに気付けるはずです。

前作でアーサーの母親ペニーはアーサーのことを「ハッピー」と呼んでいました。今作の法廷シーンでも、そのことについて触れる場面があります。

前作では「笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉が呪いのようになってアーサーはピエロ(道化)という役割を果たそうとしますが、芸人として上手くいかず、母を殺すことによってその役割から解放されることになります。

しかし、せっかく役割から解放されたのに今度は「ジョーカー」というイカれた悪のカリスマという虚像を背負うことになり、結局アーサーは自分が求めたものではなく他人が求める虚像を演じ続けることになります。

前作でこそ、アーサーは親を含めると6人も殺していますが、今作は脱獄や脱走を試みるくらいでアーサーは悪事を働いていません。妄想の中では人を殺しまくっていますが、ジョーカー(アーサー)自体は悪事を働いていません。

アーサーはとても悪のカリスマと言えるような存在ではありません。しかし、ジョーカー(アーサー)は社会現象になってしまいます。会ったこともない人間を熱狂させるほどに……。

無責任で身勝手な群衆。リーにいたってはドラマを30回見たと嘘までつく始末。相手のことを本当に理解したいのではなくジョーカーという虚像を愛したい人たち、アーサーにとっては虚像を押し付けてくる母親と一緒です。

法廷でメイクをして自分はジョーカーだと強がっても、拘置所に戻れば看守に「何がジョーカーだ」とボコられ、身近にいる殺されそうな囚人を助けることもできない無力な人間だとアーサーは思い知らされます。

結局アーサーは虚像を演じ続けることに耐えられなくなり、自分はジョーカーではない、ジョーカーなんかいないと宣言し、ジョーカーという役割から逃げます。

そして、その後にアーサーはリーを通じて、受け入れられたのは「ジョーカー」であり、アーサーは誰にも求められていなかったと思い知ります。「俺は一人じゃない」というのは幻想だったということを理解します。

作中で唯一虚像ではないアーサーを見ていたのはゲイリーだけでした。そのゲイリーも結局のところアーサーのことを怖がっていますし、アーサーは彼から仕事も心の平穏も奪いました。結局、アーサーを孤独にしたのは彼自身です。

最終的にアーサーは自身の行いによって孤独になりましたが、他人から求められた役割を演じるという苦痛からは解放されたので、ある意味で幸せだったかもしれません。

映画冒頭ではジョークを言う元気すらないアーサーが、最後には他人のジョークを聞く余裕すら生まれているので、他人から求められた役割を演じるという呪いから解放されてようやく自由になった影響の現れと言えるでしょう。

あまりにも夢がない、現実的な作品

通常、映画を見に来る一般の観客は映画を「現実逃避の手段」として見に来ます。夢や冒険、愛や希望、友情や成長、成功や救いの物語を求めて映画館に足を運びます。

しかし「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は『お前らが見ているのは虚像だ』と現実を突きつけ、現実逃避の否定をしてくる作品です。前作を見て「俺もジョーカーかも知れない」と思った人間に平手打ちする作品です。

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は歌や踊りを交えながら徹底して空想の激しい哀れなおっさんの見ていて辛くなるような人生を描き切ります。この映画にミュージカルは必要ないという人もいますが、私はそうは思いません。

この映画にミュージカルシーンはありますが、この映画はミュージカル映画ではありません。ミュージカルという要素はあくまで演出の手段です。その証拠にミュージカルなのに歌も踊りもいまいち盛り上がりに欠けます。

本当に本作をミュージカル映画として作りたかったのならジョーカーの歌や踊りに合わせ、もっと周りの人間が歌ったり踊ったりするはずです。ミュージカルシーンで楽しい気分にはならないように意図して作ってるように感じます。

アーサーは自分の辛い境遇を誤魔化すため、あれだけの歌や空想による現実逃避やジョーカーの演技をせざるを得なかった、というのが実際のところでしょう。だから、言わばあれは『辛く悲しいミュージカル』なのです。

ミュージカルシーンを退屈だ、苦痛だと感じたら、それが正しい評価なのでしょう。あのミュージカルは所詮は可哀想なおっさんの独りよがりの妄想なのですから、他人のくだらない空想など楽しくなくて当たり前です。

そして、ミュージカルシーンで描かれるジョーカーと現実のアーサーが乖離しているからこそ、ジョーカーが虚像であるということに説得力が生まれます。ブラウン管越しのジョーカーの描写を含めても全部そうですね。虚像です。

映画で描かれる人物だけでなく、映画を見に行く観客、映画に影響される人、そういう人々は虚像を求めています。そういった虚像を求める人間をこの映画ではまとめて皮肉っています。

実際に現実には虚像のジョーカーを真似る人間が出てきています。日本でも『京王線「ジョーカー」事件』が有名でしょう。有名な悪役(ヴィラン)である「ジョーカー」は便利な虚像。今後も模倣する人間が出てくるでしょう。

そのような人たちに向けて、お前らなんかじゃ悪のカリスマのジョーカーになんか成れねえよと「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」という映画を通じてビンタを喰らわせる必要があるのかも知れません。

しかしながら、虚像に逃げるな。夢に逃げるな。物語に逃げるな。現実を受け止めろ。現実が辛すぎる現代には、このようなテーマを真正面から受け止められるような観客は少ないように思います。

最終的に、ジョーカーではなく、アーサーにどれだけ寄り添えるかによって、この映画の感想は変わってくるでしょう。

夢から覚めろ、これが実像、これが人生

以上が、ネタバレありの映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の感想・レビューです。前作で広めた虚像(ジョーカー)を実像(アーサー)に戻すような続編なので、再びホアキンジョーカーで続編が作られることはなさそうです。

前作で一般人なら誰もが"ジョーカーになりうる"という幻想をばらまいておいて、今作でそれを否定してくるので、前作の「ジョーカー」に憧れを持ってしまった人、「俺もジョーカーかも」と思った人たちには辛い映画と言えます。

でも、これが金もコネもない不憫なおっさんの現実です。格差社会の敗者が溜飲を下げる成り上がりの物語から目を覚ましましょう。目を覚まさなければ劇中で描かれた虚像に熱狂する人たちと同じになってしまうかも知れませんよ。

フォリ・ア・ドゥ

フォリ・ア・ドゥ

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当ブログ『PLUS1WORLD』の記事執筆、編集、校正、プログラミング(一部)、管理を行っているのは今井阿見(いまいあみ)という個人のブロガーです。ブログは趣味と実益を兼ねて運営しています。

今井阿見は30年近くゲームを遊んでいるベテランのゲーマー。学生時代にゲーム作りや映像制作を行っていたので、ゲームだけでなく、映画やアニメなどの映像作品、スマートフォンやパソコン、ガジェットなどの分野にも深く関心があります。

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